木幡和枝| 批評「デレク・ベイリーと田中泯」

批評 木幡和枝
2004年6月17日 バルセロナ
デレック・ベイリー+田中泯デュオ公演
ジョアン・ミロ美術館にて

2004/06/17/21:00~22:00
Mont Juic,Barcelona. Catalun~a, はなにも仕組まれず、利己的でない時間でした。

両者とも、準備が本当になく、体調も万全といえ ず?、「ここで○○を」という獲得目標もなく。互いの現在に関するなみなみならぬ 関心はあったと思います。

デレック・ベイリーは、(10年ちかくライブで聞いていなかった私には、)確実に身体的にトシをとっていました、ある意味でいい意味で。状況と音への繊細さはむしろ深まった感じに。

最新書のまえがきで言われている「すべては楽器を起点として、指の機敏さで展開する」というのに加え、いちばん重要な要素が語られていないと感じました。指はやはり、感情と意志の伝達媒体なのだ、ということが。感情・意志—指による実現の関係がこれからますます変化してゆく予感はしました。

デレック・ベイリーが一度も「座って」弾くことだけにかまけることなく、空気の中に溶け込んでいたのは、とても重要な選択だと感じました。いや、そういう条件がますます彼の演奏 には牽引力になるのかも知れません。「もっとも普遍的な楽器」とデレック・ベイリーが言うギターが、それだけで前へ飛び出さず、世界の細かい経絡を通じて、あるいは世界に細かい亀裂をほどこしつつ、人の中に感情と凝視(凝聴)のまさる時間を作り出す。そのとき、踊る人も鳥も観客も固有名詞は消失していました。地球の回転だけが確実に物理による生命の奇跡的な存在を告知していた。

田中泯はその無名の生命の物語を、まず初期化する役割でした。個々の物語から名前を消し、見る人はしだいに体の豊かな言語をそれぞれに見いだしていく。内面は、発見、試み、執拗さ(必然性)、遊び、疑問(おや?という感情)、とりあえずの決め(ドーダ、という感じ)、伸び(明け渡し)、 短時間の記憶の点検と長時間の記憶の浮上、などなど、受け渡しうる語彙に細分化された、強要する粘性をほとんど削ぎ落とした踊りでした。

デレック・ベイリーとの「個人的な」呼応はほとんど無かったのではないでしょうか。デレック・ベイリーすらも、時間と空間の必然に身をゆだねた、それでいて感情と意志のある存在(鳥や観客がそうであるように?)として、特別なことがあるとしたら、そのありようが、絶妙な音感覚を媒介に伝わってくる存在として、確実に一緒にそこにいると決めた存在として、あっただけなのかも知れない。

これら一切をアート言っていいのか。もしそれが可能なら、歴史は継続していると言いうるのだけれど。唯名性や商品性ではなく、個々の生命と生命という集合的な現象の子と親の関係というか、具体的な材料と基質の関係というのか、ときどき二つを繋げる、二つの繋がりをを思い出させることがアートの仕事として生まれたのだとしたら、そう呼んでいいのかもしれない。少なくとも、それを実現するスベとしての修練と技術はアート(アルス、すべ)なのだから。

木幡和枝(東京芸術大学教授)