生きることからダンスは生まれる 田中泯
財団法人 日本女子体育連盟編集
女子体育 -身体-かかわり-表現
2003年10月号掲載より
2003.8.17
僕は踊りに選ばれた人間ではなく、僕が踊りを好きになったという立場に立ちたい。強引に踊りを自分に引き寄せて生きようと思った人間だと決めている。
本格的に踊りをやりたいと思った時に、みんなが踊りを踊って良いんだということと、じゃあ踊りは一体どこからやって来たのだろうかということを知りたいと思った。
子供の時に、気が付いたら踊りの輪の中に入っていた、その謎を解きたい。胸騒ぎがしたり、血が騒ぐ、こころが踊るというのは一体なんなのか。何億年と続く生命の踊りの歴史を遡行し、芸術になる前のオドリを探りたかった。
まず、踊りは絶対にモチベーション(動機)があるはずだ、そのことを認識する作業の方が大事なのではないか、と厳しい作業を自分自身に突きつけていった。その結果、いろいろな場所に出かけ、裸体でじっと動かずに横たわった。その当時に踊りといわれている、ある意味で表面的なものをはぎ取っていったのだから、もろにそれは舞踊ではないと言われたわけです。
裸体舞踊家というレッテルに不自由を感じだして、衣装を着て動き始めたら、動くことは実は簡単、よく動けるわけですよ。動かないでいた時期に、自分のからだは無意識に動きを学習していたのですね。しかし、それにまたひっかかって嫌になっちゃうんです。機械のように自分のからだを動かして、それが踊りなのかなぁと。芸術舞踊が動くことを一番中心に据えてしまうと、スポーツとの差異がなくなると思う。
動けない(とどまる)ところにも答えはある。横たわっている人たちにとって踊るというのは何なのか。動くことへの躊躇があること、何かの経験があって動けなくなったこと、そういったことを考えなければいけない。その子の内面の中で動いているものを教えようとしなかったら、ダンスの一割のも教えたことにならない。とどまっているからだにはいっぱいつまっているのです。動かない姿の魅力です。
僕自身が小さい時から影響を受けた空間環境は都市ではないということで、山梨の白州に来たわけですが、白州へ来て、老人たちが立ち止まってじーっと田んぼを見ている姿とかを美しいとおもってしまう人間だから、それを自分が実践する。自分が感動したものを自分のものにするわけです。人間というのはダンサーの何百倍もいるわけで、ダンスと無関係の人たちのからだや日々の動きというものが思考の中に入っていなければいけない。観客とダンサーとの関係というのは、わたしの中にもあなたの踊りはあるかもしれないという感覚を交換(交感)することで、交感はダンスの重要な要素だと思う。
白州での仕事(農耕生活)、すなわち生きること、そこからダンスが生まれないとつまらないと思う。
天地や動植物と共有する生命過程を舞踊の軸とした「桃花村」の創造活動は、いよいよ複雑に矛盾を抱えて加速しています。
踊りは巨大な相手ですよ。
インタビュー片岡康子/山梨県白州町にて