身体感覚考
田中 泯
マリー・ヴィグマンを蒸し返して申し訳ないのだが、気になっている事なので、仕方ない。彼女のヴィデオ映像の中で、本人が語っていることなのだが、自然の中で踊ることの素晴らしさが話され、続いてその映像が流れる。自然の中とはいっても川の近くの芝の生えた多少のブッシュのある、誰にでもわかる言わば人工自然。どうせ地面の平らなところを選んだのだろう。自然の中でと云っておきながらその場所の粗末さが気に入らない。踊りはと言えば、もっとお粗末なのだが、ブッシュに近づいて枝振 りを眺めてごらん、と言いたくなるような、不自然で自意識過剰の脚の使い方、何とも単純で(そう思っているようにみえないから、尚更に単純で)、それでいて余計な 腕の動き。部屋のなかの家具をアスファルトの道路に置いた位の違和感がある。違和感と感じているのかも知れない当のダンサーたちは、動き続け、ついでに(ではない と思いますが)笑みすら浮かべている。踊りだと言われ動いているうちに踊りになっていた、よくある事だが、踊りとは、踊りを感じるとは何なのか、不問のままではあんまりだ。と、私は思います。
「自然 の中で踊るのだ」がひとかたまりの言葉になって馬車馬のごと く動くのでは、自然の存在は幻ではありませんか。自然との互換性のない身体とでも 言うのだろうか、つまりあちらとこちらの全くない身体を見せられた気がするのです。感じていないと言ったら失礼かと思いますが、そのようには見えないダンサー、 はどこまでもお粗末で幼稚だ、と私には思われます。子供がテレビでおぼえたムーヴ メントを、所構はず動いてみせることの方が、はるかの刺激的ではある。何故なら、空間を選ばない度胸と、価値観を無視した愛敬を、そして確かな衝動とが彼らにはあるからだ。
自然=神=踊りと記してもよいし、自然=地球の始まり、生命の始まり=踊りの始まり、と表してもよい、と思われる私の未成熟の好奇心にとって「自然の中で踊る」という、ひとかたまりの言語には、どもりにも似た身体のこだわりをおぼえてしまうのです。ヴィグマンに始まったわけではないのでしょうが、以後、綿々と似たりよったりのダンサーたちが自然と踊るを、いとも簡単に場所でつなぎこなしていることを思うと、はがゆいのです。
ニジンスキーや土方巽を引き合いに出すまでもなく、心あるダンサーならば「自然」「踊り」を日常の中にたずさえ思考し続けることは、当然の事と思えるのです。天然の事と言い換えても良いかも知れません。つまり「人の踊りの歴史の真っ只中にダン サーは生きている」ということでしょうか。「生きている人踊りを踊る」ということは人生の問題なんぞではなく、生命の問題なの。だ、と私は思います。