追悼:アントニオ・ネグリさん
田中泯は、(ネグリさんと親交が深かった)フェリックス・ガタリと親しかったので、幸運にも2013年初来日の際にお会いできた。この時も中心的に関わられていた市田さんの文章とともに。
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アントニオ・ネグリ逝く。享年90歳。こんな哲学者はもう現れまい。
彼の名を一躍知らしめた、17世紀オランダの哲学者スピノザを論じた『野生のアノマリー(異例性)』は、イタリアの獄中で書かれた。それまでの彼は、「労働者の自律」を合言葉に革命運動から一切の中央集権性を排そうとする、イタリア限定の極左運動の理論家でしかなかった。ところが元首相誘拐暗殺事件の黒幕という嫌疑で逮捕・起訴される(1979年)と、彼は時間ができたと言わんばかりに読書と執筆に取りかかる。
1982年にジル・ドゥルーズら3人の高名な哲学者の序文付きで同書がフランスで翻訳刊行されると、ネグリの名は世界に知られた。読者はそこに、17世紀の哲学と現代の政治思想がまさに異例の仕方で直結されているのを見た。古典文献の逐語的解釈が、「ポストモダン」と「マルクス」を合流させていた。
83年、彼は獄中から国会議員に立候補し、当選する。議員特権により釈放されたものの、議会が特権を剥奪(はくだつ)したためフランスに逃亡する。裁判のほうは、暗殺への関与が否定されたにもかかわらず、国家転覆を扇動したという罪で、欠席裁判により有罪。フランスは彼を庇護(ひご)し続け、彼は大学で授業を持ち続けた。
92年、そのパリ第8大学に留学した私は彼の授業に出るようになり、別の研究所で会うようにもなって、度々数人の仲間で昼食をともにした。いや、その「私たち」は仲間になっていった。97年、彼は自らイタリアに帰る。刑に服すことを前提に。70年代に捕まったり亡命したりした活動家たちの恩赦を求めて。願いは叶(かな)わず、彼が自由になったのは2003年である。
2000年、彼はパリ第8大学で彼の学生であったアメリカ人、マイケル・ハートと共著で『〈帝国〉』を刊行する。反グローバリゼーション運動の隆盛期である。2人はグローバル化した政治権力のあり方を〈帝国〉と名指しつつ、その運動に、「国民国家」に回帰するのではなく別のグローバル化を対置すべし、という主張を持ち込んだ。
その中心にはネグリがスピノザから取り出し、蘇(よみがえ)らせた「マルチチュード」という概念がある。身分も国籍も関係なく、すべての生産活動を支えつつ、国家の思惑を超え自由に横断的につながることをやめない人々の群れである。
〈帝国〉が出現したということは、17世紀の君主を恐怖させた彼らが地球規模で歴史の舞台に登場する機が熟したということでは? 『〈帝国〉』により、「トニ・ネグリ」は「反グロ運動」を世界的に象徴する名前になった。
私は08年の春、彼を日本に招聘(しょうへい)する企画に協力した。ヴィザ発給が間に合わず、来日は直前になって中止されたが、中止を決めた真夜中の電話の最後に私は聞いた。「これで2週間暇になったけど、どうする?」。彼の答えは「バカンスにでも行くわ」。
ここ数年闘病生活を送っていた彼の肉声を聞く機会はなかったが、永遠のバカンスに出かけてしまった彼は、今の世界について何を言っただろうか。〈帝国〉も国民国家も政治的効力を示せなくなった現在、「マルチチュード」はもう、それともまだ、登場しないのか。
彼の口癖を思い出す。「僕は理論的にはオプティミストだけれど、実践的にはペシミストだ」
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市田良彦(いちだ・よしひこ)1957年生まれ。専攻は社会思想史。著書に「ルイ・アルチュセール」「フーコーの〈哲学〉」など。ネグリの邦訳書の監修もしている。