田中泯|地を這う前衛

地を這う前衛
田中泯

私は土方巽の舞踏に風景を見なかった。
私は地を這う前衛である。

私は地を這う前衛である生死の円環に必死に生命であろうとする屍体である。隣から隣へ、次の現場である未知の家へ、隣から隣へと体表は舞踏する。視線を逆襲する肉体、見えている幻をつきくずす見えない舞踏。

土方さんの指は絶えず日常だ。戦いのない肉体が家を求めることこそ幻なのだ。

私は地を這う前衛である。肉体の構造は社会にこだわり、機能は世界にこぶしを上げる。そのままであることの、真の工作を施した肉体が土方巽だ。

百キロメ-トル躍び退いても近くなる肉体。時代は舞踏を作らない。舞踏は変身を欲 したと言われる、が、私はそうは思わない。舞踏は化粧をしてそのままでこそ戦った のだと。土方巽に願望はなかった、気楽な絶望こそが暗黒舞踏なのだ。当たり前に驚 くことが肉体なのだ。

私は、土方巽の舞踏に風景を見なかった。判断を狂わすこと、呼吸を乱すこと、目的を忘れること、理解に答えないこと、主客を転じること、そして恥じる様に結晶すること。屹立する土方巽を見て自らを立たせようと思ったのではなかったか。痩せ衰えた土方巽を見て、われわれは美学に日和ってしまったのではあるまいか。

私は地を這う前衛である。丸裸になることが私にとっての化粧であった。判断を停止することが戦闘であった。土方巽が人の居ない所では絶対に舞わなかったのと同じように、私もまた人前でしか舞うことを欲しなかった。舞うことは本質的に他人事なのだ。自分の肉体をあけ渡すこと、物質の未明に踏み込むこと、他人の重大事に駆けつけることがそれである。あるいはたえず感覚を盗み続けることがそれである。そして 他人を混乱という知性の舞に巻き込むことなのだ。目眩をして鉢巻のような世界を振 る落とすことだ。私は七年前、手足を、肉体を、支える道具としてしか使わなかった。手は安物の言語だと思っていた。等身大を越えるために日常の速度を拒否していた。他人の思考の速度が気がかりだった。それは舞が成立するのが思考の前か後なのか知っておきたかったからだ。いつも殆ど目に見えないほどゆっくりと舞っていた。

静かに、本当に静かに覚醒したいと思っていた。舞はおとずれてくるものだと誰かが言っていたが、私は、私の、肉体の、構造に執着することでおとずれの来訪を遠慮していた。手の平を外側に向けて、ちょっと待ってくださいといった調子でだ。思考の速度、血流の速度、意志の速度、筋繊維の速度、意気地の速度、さまざまの速度の混在に私は興奮し、そして覚醒した。私はどこにでもころがった、戦闘は現在でも続け ている。「君は肉人だね。」と土方さんに言われたことがある、そうだ私は10段変 速の肉人だ、どこにでもころがって薄目をあけている肉人だ。肉に風景はない、歴史 もない、肉であることからでしか始まらないことがある。肉を包む体表はつつみ紙の 様なものだ、ただし模様が問題だ。地表を転げ回る体表にはいやでも地球社会模様がプリントされる。舞が体表を透って肉におとずれてきた。私の肉体は受容器へと変化していった。

私は地を這う前衛である。言語ある肉である。肉体の機能に言語は共棲する。肉体と肉体の間に舞が成立し、思考の努力の結果が舞を立ち上がらせる。土方巽は言語を生 んだのだろうか、喰ったのだろうか、言語を奪い立つとき、肉体は振え、肉体は幻のム-ヴメントを想い出す。ところで言語は風景に成るのだろうか。われわれは速度を世界に管理されている、管理された速度に逆襲するために土方巽は目的地に到着しない運動を開始した。私は失速することで速度を得た。時間の序列を破壊させる肉体の迂回と不連続な平衡感。脱ぎすてられたスリッパの様な安定した停滞。言語が尻餅をつく様な肉体の不定形、おさまりがつかない坂道での出会いの様な凝固。イメ-ジが高熱を発して風おこす。土方巽は風に背中を噛まれていた。

私は土方巽の舞踏に風景を見なかった。思いついてしまった苛立ちが未来に咬みついている様な土方巽の肉体。約束を破るためにていねいに約束を重ねる肉体。どこにでも行けそうな楽天的な悲しみのあるそのままの土方巽。たとえ土方さんが風景を見せてくれようが、それを見てしまったのでは私の文化的失敗であることを、私は初めから知っていた。私は現在でも土方巽にこだわっている。

北へ帰る白鳥、私は地を這う前衛である。われわれの精神史でもある地球の歴史に舞のおとずれを眺めているその場狂いの楽天的直感。われわれに深い個性というものがあるとすれば、数百年後の無秩序も悪くない。が、移ろいやすい微細な階級が必要だ。感情は階級認識にはユ-スフルだ。感情は個人の持ち物だと信じられているのだから。もっとも、歴史は多くの感情管理をしてきてはいるが、これについてはいずれしっかりと書き散らしたいと思っている。懐かしさのポイントが問題だ。私有し得ない感情のあらわれを土方巽と呼ぶこともできる。古来、土方巽は感情であった、個人の懐かしさにかまけていられないのが肉体の伝統であった。愛は歯ぎしりし、恋は尻を震わせる。歴史に眠る肉体の感情を鼓舞すること、が最近の私の仕事に成っている。舞踏手の存在がたかまる必要はない、己の肉体の内なる鈴を鳴らし、眼を片寄ら せて立ち続けようとするのであることが必要だ。土方巽は風を食べるらしい、当然のことだ、風も食えない内蔵に言語を飼いならせるわけがない。

私は土方巽の舞踏に風景を見なかった。物はいつでも移動している。われわれは工夫という移動の仕方を知っている、それも横位置にずらすという非常に地上的なやり方を知っている。軸を変動させながら横に移動する土方さんの策略に何度も興奮したものだ。丹念に手の平をかえす様に肉体をずらしてしく最も力強い表現が私は好きだ。古いか新しいかどっちかだと言いながら両方同時であるように。隣りから隣りへ、次の現場である未知の家へ。

私は地を這う前衛である。今年の一月から初めてダンスにタイトルをつけた。「感情」がそれだ。私にとって最も美しい肉体に出会うための試みと言ってよい。水のはいったバケツを静かに運ぶ、首を突っ込み水にどなる。ツルハシを背負い長い足踏みを繰り返し、まだか、まだかと彼方に叫ぶ。自分の肉体を穴のあくほど眺めてさわる、なめる、かじる、つねる、たたく、裂く、こする。草刈り鎌を眼にあてる。ペニスをつかむ。腹をさする、ふくらます。単純さを幾百と積み上げると、何故か悲しい。私を分裂する。私は観察している。言語の階級と戦うことも必要だ。私は誰について語らねばならないのかをすっかり忘れようとしている。社会に食われない様に密かな工作を企んでいる。1976年頃から私は肉体と言う言葉を使わずに身体と称んでい る。身体になって確かに世界は拡がったかの様に思われるが、だが、自分を背負って 立つ迫力が薄くなった気がするのだが?私は肉体と身体を同居させようと思ってい る。意図を持って誰にでも分かる様に混在させてみることが、私への義務だろう。

土方巽の舞踏に私は風景を見なかった。肉体は物を作り、風景を売りとばしていた。土方巽に眼を射抜かれてから、私は土方の息子に成っていた。こだわり続ける気力は 今でも充分だ。日常にこそ向けて矢を放つ芸能者であらんと欲しているこの私に、戦略を囁き続ける土方巽を脚の萎えかかっている貴君に紹介する。だからといって軟弱な取り巻きには成らない様に要心要心。舞踏は君が不遜な野望を抱いた瞬間に土方巽との間に生まれるものだ。最後に田中泯は土方巽の正当なる嫡子であることを宣言しておく。