「サーキュレーションと文化」田中泯さんに聴く

「サーキュレーションと文化」田中泯さんに聴く

聞き手・深沢修
2007年9月

田中泯さんの踊りの原点は、子どもの頃に出会った「盆踊り」の記憶だという。そして、山梨の山間に拠点を持ち、里に出て演じる。また最近では、熱帯雨林の保全活動も始め出した。そんな田中泯さんに、身体表現と自然環境との関わり、「サーキュレーション(循環)」への考え方などを聴いてみた。

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■森は文化の発祥地
文化というものは都市で発達したようにとらえられがちですが、もともと森が文化発祥の地なんです。日本の文化、特にその中でも芸能は、海と山の間で語られるとまでいわれます。その点、山梨の地は森の世界ですね。私にとって活動拠点として最適な地なんです。森は人が関わって多様性を保っているものです。実はそのことは芸能の世界にも通じることで、日本はアジアの中でも、珍しく多くの種類の芸能がある国なんです。
住居のある生活空間と森〈山〉の間を「里山」といいます。この里山というものが芸能の発祥に重要な役割を果たしていたことを忘れてはなりません。里山は縄文の時代から生活様式の一部であったといわれています。炭焼きをし、キノコを栽培し、住居の近くにある森から資源を得てサーキュレーションしてきたのが里山です。人間が下草を刈ることによって小さな花が咲く、昆虫や花のバランス、鳥とのバランスが保たれるなど、人間が自然に手ををいれることによって生態系が保たれてきたのが日本の里山です。その自然とのサーキュレーションの中から表現が生まれ、芸能の種は平地に伝播して行った。いわゆる芸能は里山の百姓達の出稼ぎ労働だったわけです。それに百姓といわれる人々は、中世あたりの支配体制が生まれるまでは、かなり自由だったといわれていますから、おそらくそこから多様な表現が生まれて来たのでしょう。このように森は、芸能にとって重要な意味を持ったものなのです。

■身体の本音と、頭の本音
ところで、人間の身体に関わるサーキュレーションには二つの考えがあります。地球上で、あらゆるものが生まれて死んでいく。これも循環ですね。しかし、人間の個にとって「死」は終止符であり受け入れがたい。そこで私たちの先祖は宗教や哲学のような観念的な循環を考え出してきました。 「人間は自然の一部だから土に帰り、また新たな生命として別のものになって生まれ変わる」そうした循環を理屈づけたわけです。他の生物にはそんな意識がないわけですから、人間だけが循環と呼んでいる。   私の関心のある循環というのは、いま話したような理屈の上での循環でなく、もっと純粋な自然の循環といったらいいのか、人間の概念では割り切れない生命体に関わる真理のようなものなんです。縄文時代の人々には、今日のような宗教や哲学の概念的な循環の考えはなかったのはずです。もっと自然に近い、純粋に生命体の循環に身体に委ねていたのではないかと思うわけです。私はそうした一生命体としての循環の中に身をおいてみたい、そこに興味はあるんですよ。私の身体の感じるままに生きたらどうなるんだろうとか。もっと生物に近い自然体として、本能や衝動に従ったらどうなるのだろうかとかね。私たちはそうした欲動を理性で押さえているのが現実ですよね。例えば、赤ちゃんは生まれたときに、驚異的な動きをするんですね。四肢を完全にバラバラに動かしている。まるで原始的なアメーバーのように周囲の環境を探す触覚の行為のようでもあり、実に感動的です。この動きはよほど自我を放棄しない限り大人には出来ない動きです。やがて脳と手足の動きが連結すると、その行為は出来なくなります。人間の身体が生命連鎖の内でどういう道を辿って来たかを考えれば、身体の本音と頭の本音は違っているはずなんです。自分という生命体が無意識だった時代をなんとか取り戻せないだろうか、できるだけ意識下に潜む動きを引き出したい。それが僕の踊りというメッセージにもなっているんです。確かに、今日の科学は自然界の循環を解き明かしてくれはしましたが、科学では割り切れない位相なところで、私は循環を考えているような気がします。それは一種のあきらめのようでもあり、人間の残されたいささかの希望にも繋がるようなものが混合して、私の身体の中に渦巻いているような気がしています。おそらく中沢新一氏がいうところの「野生」ではないかと感じています。今日の芸術は、細分化され過ぎて衰弱化していると思います。元来文化(芸術)は、もっとプリミティヴなものであるべきで、「野生」が必要だと感じています。もっとも人間の生き方が多様化してしまったため、芸術もそこからはみ出したものになってしまった。だから他の生物に近かった感覚が失われてしまっています。私は、アーティストというのは、生命の発生まで遡り、生物としての郷愁というものを求める人々だと思っています。

■人間が生物である証
私の踊りは、幼い頃の「盆踊り」が原点になっています。盆踊りはサークルになって踊りますね。輪の循環なんです。ハレの時間なんですね。大人の顔が恍惚となってエロチックなんです。しかし時間になるとピタッと日常に帰ってしまう。それが子どもの私には分からなかった。子ども心にこうしたハレの時間は永遠に続いて欲しいと思ったものです。人間は暮らしの営みの中で、こうした特殊な時間を創り出してきました。人間はハレの時間を準備しないと生きていかれないんです。私たちの身体は、日常の社会制度の中では抑圧され続けていますから、こうした祭という年間の循環の中に入らないと、すぐ社会的反乱が起きる。そこで昔から政治を「政(まつりごと)」といった所以もそこにあるのだと思います。最近団地でも祭が復活したのが良い例ですよね。一定量の人間がバラバラに生活していたらパンクしてしまいます。どこかで共有できる場を持たないと共同体の維持は不可能なんです。そのことは、やはり人間も生物であるという証ですよ。

■熱帯雨林の保全活動
最近、私はインドネシアの熱帯雨林の保全活動を始めたましたが、今日、自然環境は、地球規模で考えなくてはならない時代です。世界の人工は爆発的に増えて来ました。しかし地球の質量は変わりません。もちろん地球の質量が変わったら大変なことになります。だから人間が増えた分何かが減っていると考えると、それは植物ではないかと、私はそんな気がしています。まさに人間も地球の一部なんですね。私は、インドネシアに行った時、熱帯雨林の荒廃ぶりに驚きました。それはかつて日本の企業が森林を採り尽くし、私たち日本人がその資材を使っているんです。私たちがこれから森林保全に乗り出そうとしているカリマンタン島は、なんと日本の三倍もの面積があるのですが、空から見るとゴルフ場のようなんです。実に凄まじい勢いで森が消えている。現在、私たちはNPOを立ち上げつつ、どこの森を保全するかを決めているところです。今までお話したことからもお分かりだと思いますが、自然とのサーキュレーションの中から生活の知恵や、表現が生まれてくるわけですから、私たちは、森という環境をもっと真剣に考えなくてはならないはずだと思います。