寺田透 |「無言の告知」

寺田透 「無言の告知」

ヤニス・クレイチ(写真家)
田中泯写真集「皮膚に棲む海」より

機会があったら書こうかと思つてゐたことなのでそれを書く。

今年になつてからずつと、田中泯の独舞公演を毎月みてゐた。かれからの案内状を添書きによると、一年中共同生活の拘束の中にあるかれの、月にたつた一回のひとりの時間なので、このときは勝手に踊つてみたいのだといふ。

八月末、六日つづきで催される土方巽追悼公演の三日目の出演者であるかれは、むろんあの舞踏の始祖の薫陶を受けてゐる。僕はと言えば、はじめの頃土方から案内を受けたり葉書をもらつたりしながら、公演の場所が遠かつたり交通不便だつたりのため、見に行かずにゐるうちに、かれが高名になりすぎ、そのうち踊らなくなり、倒頭亡くなつてしまつた。先頃筑摩書房から出たその遺書の一つ「美貌の青空」のバラ線をはつた柵の向こうに人気のない海岸の原野が広がる手前の道を、女物の角巻で顔の半分と方をくるみ、紺足袋下駄穿きのかれが、急ぎ足に歩いて行く横向きの写真は、さうしてかれが手のとどかないところへ行つてしまつたしるしのやうで、見てゐて心が痛む。あとに残した右足の、黒っぽい着物の裾と、紺足袋の口のあひだのきりつと緊つた足首が、普通さういふ姿の写真で見るよりずつと長目なのが、いかにも急いで立ち去る格好である。日本舞踊でなら、諱み、避ける姿だらう。

その土方が振付した舞踏を、あるとき田中が踊つた。恋愛舞踏派定礎とか銘打つた、田中の千五百回目の踊りで、それはうちからも足の便のいい丸の内で行われた。
僕ははづんだ気持で見に出かけ、思ひがけぬ感銘を与えられ、その感想を当時週一日だけ寄稿してゐた信濃毎日の自分用の欄に書いたのだが、信州に住む谷川雁の手で東京に送られ、土方巽の目にも入り、かれを喜ばせたといふ順序だつたといふことだ。

それ以来の田中泯との縁なのだか、中野弥生町にあるプランBの狭く狭い地下ホールのかれの舞踏はからだをもつてする語りなのだと思はせる。これに対してラ・アルヘンチーナ頌を踊る大野一雄はからだで歌つてをり、それだけそれは昭和十年前後の踊り手や、その頃の次々とやつて来た外国の舞姫の舞台に煮た、ある架空の線を流麗に、華麗に、嬉々としてたどるといふ感じを与え、田中の舞踏の、地下の下からみじみ出、そこにうづ高く盛り上がり、動き出したとでも言つた感じと大変違ふ。

無論大野も五十年の踊り手たちにはなかつた一特質をはつきり持つてゐる。それはかれが別の人間になつて踊ることだ。踊つてゐるあひだは昔も今も、女も男もなく、日常生活ではさう長く続けることの出来ない旋律的な自由な動きを誰しも具現してゐるわけだが、かれの引き込みの後姿のことに肩につき、演技が終わって花束を受ける際のしぐさなどはまったく女そのもので、鳥肌の立つ思ひさえさせる。
舞踊のといつても舞踏とついてもいいが、踊り手がかういふ風に性別を異にする別の個躰になつて踊るということはかつてなかつたのではなからうか。歌舞伎の女形の所作事が女以上に女だといふのは、かれらがその役割を演じてゐるといふことで、うちばに、あるいはなよやかにかれらは自分を、あるいは自分のからだを制御してゐるのだが、大野は奔放に動いて、しかも女なのだ。

踊り手のからだが、情感にせよ、情緒にせよ、あるいはそれらの無、すなわち無機的な動き自躰など、要するになんらかの抽象的な意図を表現するのではなく、つまりかれ自身ではなくなつて、他の何者かになるといふところに、土方をみてゐない僕は舞踏の精髄を見るやうに思う。

田中泯もさうである。その前に見た丸之内と新宿の田中はいはばよそ行きの田中で、この一月のプランBから僕の田中は始まる。誇りだらけの戦前の巡査の外套のやうなものを羽織、黒い少し窮屈な小倉らしい服をまとふかれは、ヨイヨイ気味の浮浪者である。靴は農耕用の深靴ださうだが、僕には古い軍靴と見える。長髪のかげからみえる髭面は、麻痺寸前の怒気と狂気を併せ持つ、終戦直後親しかった日焼けした風貌さながらである。
さういう造り、さういう顔で、ひとはグロテスクにならずに踊れるか。
踊れなくはない。かれが日比谷でそのなりで神楽のやうに大きく舞ふのを見たし、田中自身踊るといふのだが、少くもプランBでのそれは踊りとも舞ひとも言えず、さうかといって、定められた筋書きの肉躰による絵解きでもなく、各瞬間が発明である力のこもつた語りと言ふのに適はしい。遠い砲声のような音響効果。飛行機の飛び交うやうな音。ガードをわたる国電の轟き。突然発する田中の奇声。迫真の声である。少し気のふれた浮浪者が誰の顔をみるでもなく、都会の唯中で突然放つ叫び声にそつくりではないか。中入り後のことで、かれはどこかで安酒をあふり、失われた恋しいものへの思ひに耐えかね、よろめき出て、あのやうの叫ぶに違ひない。観阿弥以来の物真似、型木の伝統が生きてゐると思ふ。

しかしそれが分からせるための演技ではないのはいふまでもない。プランBの田中の月例公演は、その日の日附けが外題だから、説明のいとまはないのだ。およそ一時間半かれはひたすら何者かになって生きる。
と言ってもプランBでかれが男だけだったのは一月のみで、大抵前場のかれは女である。荒れくれ男にそのままなれる顔でかれは女なのだ。いつも同じ赤いつぽい掻巻を寝るときのやうに被て、熔岩のやうに蹴り、向こう向きに水に身を投げ、舞台の向こう外れで十字架にかけられたやうにのけぞるとき、紛れもなく、この偉丈夫が苦闘する女である。
しかもその果てに絶命するかの女らの許に戻つて来る男たちで田中があるときより、かの女たちの方がはるかに濃い情感を伝えるのはなぜだらう。まだよく分からないが、そこにドラマの母胎を見ることが出来る。田中の男の常習的偏枯も、さうではなくては踊りの目覚めの追躰験はできないといふことのかれによる無言の告知ではないのか。

「潮」1987年10月号より田中泯写真集「皮膚に棲む海」への転載